艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

ゲームプレイ&探索記録と考察を少々

備前渠用水 流末 矢島堰-道閑堀排水機場

 ⑦名称不明堰 埼玉県深谷市矢島
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 前回は小山川から矢島堰樋門を越えたこの堰まででした。

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 ⑧唐沢川伏越部 深谷市上敷免
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 備前渠用水は唐沢川を伏せ越します。
 ⑧唐沢川流末と小山川 深谷市成塚
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 唐沢川は総延長約 3.5Kmの利根川水系の一級河川です。源流(最上流)は深谷市内で、深谷市内を北へ向かって流れ、深谷市成塚で小山川(利根川の支川)へ合流します。
 唐沢川の主水源は櫛挽用水路の流末ですが、櫛挽用水路は二瀬ダム(荒川本流最上流部)の発電用放流水を農業用水として利用したものです。唐沢川は利根川水系ですが、流れる水は荒川のものになります。
 歴史的農業環境閲覧システム 迅速測図/国土地理院地図
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 唐沢川は古くは唐澤堀と呼ばれ、深谷町の悪水を福川(利根川支川)に流下していましたが、度々溢水被害に見舞われたため、大正末期から昭和初期に行われた福川の改修事業に伴い、福川は唐沢堀を伏越す形となり、新たに唐沢川流路を掘削して小山川へ接続しました。この際に備前渠用水に唐沢川伏越が設けられました。

 ⑧上敷免橋 唐沢川伏越下流 深谷市上敷免
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 この辺りの備前渠用水は伏越部や堰、橋梁部など水利施設付近を除き、素掘りの流路となっています。素掘りの流路は排水路や末端の小規模用水路では見かけますが、地下水脈と通じて通水ロスが大きいので、この規模の用水路では珍しいですね。
 上敷免の地名は明治期に建設された煉瓦水門の下調べでよく目にした地名ですね。
 利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原を成しており、肥沃な土壌に加えて、細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが畑作には適した土地です。とは言え、農民が自給する分の米や麦は必須ですので水田は必要で、江戸時代は米が収穫できない地域では、商品作物等の売却代金をもって他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという「買納制」が例外的に行われました。
 備前渠から引水する水田
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 現在でこそ長葱など野菜の一大生産地となっていますが、往時は用水が届かない、排水が出来ない地域を除き、可能な限りは水田としていました。
 治水地形分類図 初版(1976-78)
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 この時代には田んぼが出来ない地域には桑畑が広がっていますね、現在の地形図では、「桑畑」の記号が廃止されています。ちなみに「v(畑)」の記号は当時はなく、空白:空地と同じ扱いです。これは戦前は陸軍参謀本部陸地測量班が地図の作製を行っており、軍隊の行動への影響を重視して作成しているためです。
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 なお、田んぼは歩兵の機動に与える影響が大きいため、沼田(湿田)、乾田(二毛作が可能)、水田の3種類に区分されていました。戦後の国土地理院地図も当初はこれに準拠していました。
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 伊奈忠次は河川改修のため各地に赴きましたが、農民に炭焼き、養蚕、製塩などを勧め、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めました。この地の養蚕も伊奈忠次によって伝わったものでしょう。
 畑作は三毛作以上も可能ですが連作障害が起こりますので肥を購入する必要があります。輸送コストを考慮すると割に合わず、船橋(千葉県)の小松菜や練馬(東京都)の大根、越谷(埼玉県)の長葱など江戸城外近郊で商品作物の生産は行われていました。高収入の得られる養蚕(桑畑)は「買納制」で米を購入して年貢を納めるには適していたのでしょう。
 戦後の高度経済成長期以降の都心部人口の爆発的増加が東京近郊の田畑を住宅に変え、膨大な需要と減反政策に加えて畑作に向いた土壌が田んぼや桑畑から畑作への移行を促していますね。

 ⑧石原堰 深谷市上敷免
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 冒頭の堰と同様に固定堰中央に水門が設けれられた独特の形式ですね。右岸の新井用水に分水しています。固定堰の上に設けられた堰枠に堰板を3枚填め込めば、更に嵩上げできる構造です。堰の構造自体は非灌漑期の方が良く観察出来ますね。石原堰の奥に見える赤い橋は、備前渠鉄橋です。
 備前渠鉄橋
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 日本煉瓦製造の引き込み線で日本では第一号の鉄道引き込み線です。深谷で日本初めての試みを行う辺りから分かる通り、渋沢栄一が初代会長を務めています。現在は鉄道は廃止され、歩道橋となっていますが日本煉瓦製造の工場からJR高崎線の深谷駅まで煉瓦を運びました。備前渠鉄橋は日本で最古の部類のポーナル型のプレートガーダー橋で国の重要文化財です。
 備前渠鉄橋水路アーチ部
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 石原堰から分水した新井用水が通ります。使用された煉瓦は当然、日本煉瓦製造株式会社製です。
 会社旧事務所(明治22年・1888年頃の建設)
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 現在は日本煉瓦史料館として使われています。
 明治政府は日比谷周辺を近代的な建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、明治19年(1885年)に臨時建設局を設置しました。建築物は洋風の煉瓦造りとするため、大量の煉瓦が必要となります。財政に乏しかった明治政府は実業界の重鎮であった渋沢栄一に大量の煉瓦が生産可能な工場の設立を依頼します。
 従来から瓦生産が盛んで、良質な粘土が採れ、小山川から利根川-江戸川経由で東京への舟運も容易ということで、渋沢は実家近くの上敷免村を推薦します。
 明治21年(1887年)にドイツ人技師を雇い入れ、事務所建設を行い、窯はドイツ人のフリードリヒ・ホフマンが考案した「ホフマン式窯」の図面をドイツから取り寄せ、建設を開始します。蒸気汽缶、製造機械などはドイツから輸入しました。同年9月に1号窯の火入れが行われ、臨時建設局より22万本の注文を受けています。
 日本煉瓦製造の煉瓦を用いた主な建築物
・東京駅(東京都千代田区)
・中央本線万世橋高架橋(東京都千代田区)などの鉄道高架橋
・司法省(現在の法務省旧本館、東京都千代田区)
・日本銀行旧館(東京都中央区)
・赤坂離宮(現在の赤坂迎賓館、東京都港区)
・東京大学(東京都文京区)
・旧金谷レース工業鋸屋根工場(群馬県桐生市)
・信越線碓氷峠の鉄道施設(群馬県安中市)
 明治期に埼玉県では全国最多の煉瓦構造の利水施設(およそ250基)が建造されましたが、少なからぬ数の構造物の煉瓦がこの工場から水路経由で運ばれて建造されています。
 煉瓦の刻印
上敷免製
 明治期の日本において、煉瓦に印された[上敷免製]の刻印は、最優良ブランドの証であり、品質保証のマークでもありました。ただし、刻印を付けられた煉瓦は、全ての煉瓦ではなく、納品数の1/10くらいだったそうで、刻印されたのは表積用ではなく裏積構造用の煉瓦の平の面のみです。煉瓦構造物を丹念に調べても恐らくは見つからないでしょう。
 イギリス積み、フランス積み
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 色々な煉瓦の積み方がありますが、平の面は煉瓦同士の接着面であり、平の面が見える壁構造の積み方は存在しません。例外的に装飾などの天端の迫出し部などに平の面が見える場合がありますが、その場合でも見た目を考えて表面に刻印を晒すことは稀でしょう。今回見逃した旧・矢島堰(備前渠用水 小山川-矢島堰参照)に解体され、散乱した煉瓦の中に刻印のあるものがあるようです。次回訪れるときは必ずチェックします。
 ホフマン輪窯六号窯 煙突 
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 最盛期には6基の窯が稼働していましたが、関東大震災による煉瓦構造物の倒壊により、鉄筋コンクリート造で建造物を構築するようになり、時代の流れには逆らえず、後に太平洋セメントの子会社となり、平成18年(2006年)、日本煉瓦製造は株主総会において自主廃業を決定、清算されました。
 手前の土地に注目して頂きたいのですが、日本煉瓦製造工場跡東側には河川堤防のような段差が見られます。
 治水地形分類図初版(1976-78)
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 河川跡は有りませんね。不自然な点として、赤丸で囲んだ部分の橙色の自然堤防上に水田が存在します。利根川乱流地帯の氾濫原ですので人々は自然堤防の微高地に集住し、微高地は住居か畑地となるのが普通ですが田んぼとなっています。水は低い所に流れますので掘り下げた事になりますね。
 これは、煉瓦の原料となる粘土採取のために掘り下げた跡です。粘土を掘った後は水田にして返す約束で粘土を採取したそうです。

 ⑨水神宮 深谷市堀米
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 堀米橋の袂の備前渠用水右岸に鎮座します。利根川の氾濫や流路の変遷などの自然災害により幾度も灌漑機能を失い、その都修復を繰り返してきた備前渠ですので水神に用水の安寧を祈っているのでしょうね。。
 堀米橋上下流
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 完全に干上がっています。昔ながらの素掘りの水路であることが良く判ります。

 ⑩備前渠再興記碑公園 芝橋右岸 熊谷市妻沼町八木田
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 備前渠用水沿いに建立する碑で最古のものが天保4年(1833)に建立された、備前渠再興記碑です。再興とは治水上の問題から幕府により寛政5年(1793年)から35年間、備前渠用水の元圦が閉鎖され、復旧工事により通水が復活した事を指します。向かって右が本物ですが風化により表面が剥落しており、左側に複製されたものが建立されています。
 芝橋上下流
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 ここから下流域はコンクリート製の護岸となります。

 ⑪備前渠用水流末 道閑堀排水機場 熊谷市江波
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 現在の備前渠用水流末は道閑堀排水機場から福川へ落とされます。道閑堀排水機場は昭和59年竣工です。
 歴史的農業環境閲覧システム 迅速測図/国土地理院地図
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 道閑堀は熊谷市妻沼を流れる芝川(都市排水)と備前渠用水の流末を集める排水路で、以前は利根川の右岸へ合流していましたが、昭和初期に実施された福川の改修に伴い、排水先が福川へ変更されています。
 福川は備前渠用水の悪水路として機能していますが、その余水は旧福川を通じて北河原用水元圦(赤丸)から取水され、その流末は更に羽生領用水で利用されました。悪水の高度な再利用は伊奈氏の工法(関東流)の特徴ですが、溜井は設けられてはいませんし、備前渠用水と福川(悪水路)は用排水分離ですので井沢弥惣兵衛の工法(紀州流)に通じます。要は適材適所ならぬ、適地適法という事なのでしょうね。
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