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ゲームプレイ&探索記録と考察を少々

渋沢栄一生家「中の家(なかんち)」 埼玉県深谷市血洗島

 血洗島交差点 埼玉県深谷市血洗島
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 休憩がてらコンビニエンスストアに立ち寄った際に交差点でこの地名を見つけました。一度見たら忘れないインパクトがありますね。備前渠用水の下調べ中に目にした渋沢栄一の生家がある土地の地名です。

 渋沢 栄一(天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)
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 日本の実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
 江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行います。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現、二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称されます。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られています。令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となります。また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定となっています。
 実業家で子爵に列せらたのは渋沢ただ一人です(三菱、三井、住友などの財閥系実業家は男爵)。私利私欲よりも公益を優先させる、論語を通じた経営哲学が評価されているのでしょうか。大きな功績を残した割には知名度が低い辺りは伊奈忠次に通じるところがありますね。

 血洗島の地名について
 血洗島生まれの渋沢栄一は「恐ろしげなるこの村名のかげには幾多の伝説や口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという」と、『龍門雑誌』に書いています。
 他には
 1 八幡太郎義家の家臣が戦いで切り落とされた片腕を洗ったという伝承由来。
 2 当て字で「血洗」(けっせん)と読み、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)であり、気仙沼(ケセンぬま)・厚岸(あつケシ)などの地名と共通する同意語説
 3 利根川の乱流地帯で氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが、「地」の字が「血」に変わった。
 ちなみにアイヌ語で「利根(トネ)」は(tanne:長い)という意味だそうです。

 国土地理院地図/治水地形分類図
 血洗島の「島」は利根川氾濫原の旧河道:瀬と自然堤防:島のうちの「島」を意味します。
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 赤丸で一部示した地名は四瀬八島と呼ばれる四つの瀬、八つの島の地名です。

 Googleマップ 深谷宿-血洗島
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 江戸時代に深谷は中山道の宿場町として栄え、幕府直轄領でした。渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は深谷宿から北へ約1里半(6km)のところにあり、北に1.6kmほどの所に利根川が流れ、中瀬河岸(現・深谷市中瀬)があり、江戸との物資・人の往来の中継基地として、大いに栄えました。
 血洗島村は、近隣の村々と合わせて岡部藩安部氏の支配する土地であり、安部氏は元は今川氏の家臣で今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原(現在の愛知県新城市)の領地とその他を合わせて1万石を越え、大名に列せられ、深谷宿に隣接する岡部(深谷市岡部)に陣屋がありました。
 血洗島をはじめとする利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原を成しており、肥沃な土壌に加えて、細かな砂礫が混じっているため、米作には向きませんが畑作には適した土地です。
 葱畑 深谷市血洗島
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 現在も「深谷葱」など野菜の一大産地として全国的にも知られています。
 片田舎のように見えますが、血洗島村は人や物資が交通・流通する中山道と利根川という2大幹線に近く、渋沢栄一の育った頃には、当時の最新情報や文化を知る事が容易な土地柄でした。

 「中の家(なかんち)」 深谷市血洗島
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 渋沢一族は、血洗島の開拓者で、一族の祖先がこの地に土着したのは戦国時代末期の天正年間のことと伝わります。その後、一族は分家して数々の家を興しましたが、「中の家」もその1つで、この呼び方は各渋沢家の家の位置関係に由来します。「中の家」を中心として、「遠西の家」「前の家」「遠前の家」「東の家」と呼び、更に「東の家」の分家で古い方を「古新宅の家」、新しい方を「新屋敷の家」と呼ぶそうです。
 中の家は、代々農業を営んでいましたが、名字帯刀を許され、養蚕や藍玉(藍染の原料)づくりとその販売のほか、雑貨屋・ 質屋業も兼業した裕福な家系でした。この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれました。
 主屋内部
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 現在残る主屋は、明治28年 (1895年)、市郎(妹:ていの婿)により上棟されたものです。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の屋部分等を持ちます。
 奥座敷
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 栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷したそうです。特に村の鎮守である諏訪神社の祭りには必ず帰郷していました。この奥の十畳間は帰郷する栄一のために一郎が特に念入りに作らせたと伝わります。二階部分が無く、天井が他の部屋より一段高く設えられています。
 主屋外観
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 屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓がある典型的な養蚕農家の住居形式です。

 主屋を囲むように正門と副屋、土蔵と東門が並びます。
 中央の正門と向かって右手の副屋
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 副屋は以前は「お店」と呼ばれ、藍玉の取引に使われたようです。一郎が近隣の子供たちに漢学を学ばせるため学者を住まわせたり、八基村農業組合事務所として使用された時期もあるそうです。
 正門の扉
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 正門、東門ともに薬医門の造りで正門の扉は欅の一枚板で作られていますが、一郎が大木を求めて時間を掛けて作らせたものです。
 主屋奥の土蔵と東門
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 奥右手の蔵は藍玉の製造・貯蔵場として使われたものです。蔵は米蔵、道具蔵など4つありますが、1階を奥座敷、二階を宝蔵にしたものもあります。
 当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよく留めていますが、相当の豪農ですね。
 副屋の前には、渋沢家歴代の墓地があります。屋敷外の北東には、栄一の号「青淵」の由来となった池の跡に 「青淵由来の碑」が建ち、南方200mほどには血洗島の鎮守である諏訪神社が鎮座します。


 追記
 本日のお昼 煮ぼうとうと葱のかき揚げ丼
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「彩の国21世紀郷土かるた」の「え」の札は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっています。これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることに因みますので頂きました。

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