艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

ゲームプレイ&探索記録と考察を少々

逆川開削

 逆川開削寛永18年(1641年)
 江戸川開削第一期(1635-1641年)により、下総国関宿(現・野田市関宿)~下総国庄内領宝珠花(現・春日部市西宝珠花)~下総国金杉(現・北葛飾郡松伏町)の区間の掘削を行い、現在の江戸川上流部の基礎を築きました。
 寛永18年(1641年)の逆川開削により、江戸川は利根川と権現堂川に接続されました。現在では江戸川流頭部になっていますが当時の流路はかなり異なります。
 逆川 治水地形分類図
逆川(江戸川)
 権現堂川と常陸川の分水嶺を成す自然堤防を開削しています。この地は赤堀川開削以前から、この関宿・江川付近の低い分水嶺は水運の要所でしたので、分水嶺を越える常陸川の水路も存在していたと見る説もあります。この場合は開削ではなく増削・拡幅とみなされます。
 逆川開削により銚子から常陸川を遡り、赤堀川-権現堂川を経由せずに逆川から江戸川を下り、新川・小名木川を通って江戸に至る水運ルートが完成しました。
 なお、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃川となり、締切られてからは逆川が江戸川の最上流部となっています。

 千葉-茨城県境(逆川旧流頭部) 茨城県五霞町大字山王-千葉県野田市関宿三軒家
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旧流路には高規格堤防が築かれ、千葉県立関宿城博物館が建設されています。

 利根川対岸 宮戸川排水樋菅、中央排水路樋菅 茨城県境町
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 対岸は茨城県の境町です。江戸時代は境町も関宿領でした。利根川左岸の境河岸は南北に貫く日光東往還沿いに河岸問屋などの各種問屋や商店、旅籠、茶店などが軒を連ねていました。

 千葉県立関宿城博物館(模擬天守閣)
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 千葉県の最北端に位置し、利根川と江戸川の分流点のスーパー堤防上に建設されています。関宿城、旧関宿町、河川の歴史、産業、文化、自然等に関する資料の収集・保管・調査研究を行う博物館として、平成7年(1995年)に開館しています。建物のうち、天守閣部分は現存する古記録に基づいて可能な限り忠実に外観を再現しようとしたものですが現存する資料が少なく再現性が不明な事と、藩政時代の天守の位置とも異なるので、一般的には模擬天守と看做されます。関宿領の政庁であった関宿城は江戸川下流600mほどの所にありました。

 千葉県立関宿城博物館資料-中世の関宿 より引用
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 中世の城の配置を見れば下総台地・常陸台地(常総台地)が関東の中心であった事が判ります。水運の便が良い当地周辺は古河公方の領地でした。
 古河公方(こがくぼう)は、室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏です。享徳4年(1455年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となります。(享徳の乱)
 享徳の乱は28年に及び、この間に応仁の乱が始まり、終了していますが、享徳の乱を鎮圧できない将軍及び管領細川勝元に対する不満が応仁の乱の遠因の一つとなったとされます。
 周辺図(古河公方領)
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 栗橋城と関宿城は古河城の外郭を成す重要な城であるとともに、太日川や会の川・浅間川などの利根川水運(至江戸湾)と常陸川水運(至太平洋)を結ぶ陸送ルートを守る城でもありました。
 戦国時代に関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を抑えるという事は、一国を獲得する事と同じである」とまで評しています。北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられ(関宿合戦)、北条氏康・氏政・氏照父子が上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を3度に渡り攻撃、北条氏がこれを制圧し北関東進出の拠点としました。

 寛文4年(1664年)関東地方大名配置図 千葉県立関宿城博物館資料-関宿藩の誕生 より引用
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 家康の江戸入府後も大河が集まる軍事的(防衛拠点)、経済的(水運)な重要拠点となりました。天正18年 (1590年)、徳川家康は関宿城にに異父弟の松平康元を入城させ、関宿藩が成立します。重要拠点だけに信の置ける家臣が配置され、歴代の城主からは老中が多数輩出しています。

 江戸期の関宿城周辺-現在比較図
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 関宿城は室町時代に簗田氏によって築かれたとされ、関宿簗田家の居城になったと伝わり、江戸時代には関宿領の政庁が置かれました。利根川対岸の茨城県境町も関宿領で城下町と看做されて水運業で栄えました。また、利根川-江戸川舟運の要点となりますので水関所が設けられました。
 関宿城は利根川東遷事業の際に利根川と逆川を壕として利用するように改修されています。また、土塁が堤防も兼ねていますので、現在の千葉県立関宿城博物館の地理的条件(利根川-江戸川分流点の高規格堤防上に立地)は往時の関宿城と同じですね。
 
 関宿城址(本丸) 野田市関宿町
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 関宿城は明治2年(1869年)、版籍奉還により明治政府に移管され、廃城となっています。大河の合流地点ですので洪水被害に度々見舞われており、近代の河川改修により遺構は徹底的に破壊されてしまいました。
 本丸と掘(水田)
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 江戸川左岸堤防により本丸の2/3は失われています。地面が柔らかく近年盛土を行ったようですので、どこまで現状を留めているのか甚だ疑問ですね。

 三の丸 同地
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 牧場の高台が往時の三の丸の面影を残していますね。
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 仔牛が構って欲しそうにこちらを見ていますが、農家の人に怒られそうなので触るのは我慢です。江戸川堤防沿いで排水が困難なため、城跡の転作は畑地や牧場が目立ちます。

 小性町通り 同地
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 往時は武家屋敷が並んでいたのでしょうが、農家の住宅と水田になっています。クランク状の交差点(桝形)に城下町の面影がありますね。関宿領の久世家家臣はおよそ500人で、100軒ほどの屋敷があったそうです。江戸3か所に藩邸を持ち、およそ100名が江戸詰めで勤務したそうです。

 関宿関所跡碑 野田市関宿江戸町
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 水関所で江戸川を出入りする「入り鉄砲出女」を監視しました。関所自体は江戸川対岸(往時の権現堂川と逆川合流点)に所在しています。
 元和2年(1616年)、関宿河岸が利根川・江戸川筋16の定船場の一つとされたことから、寛永2年(1625年)、江戸川と権現堂川の分流点で通行人や船荷改めを行うことを目的として、江戸幕府によって関所が設置されました。番頭2人、平番6~8人、門番2人のほか、足軽若干が配置されていました。
 寛永8年(1631年)、関所の管理は関宿藩に委託され、幕臣による在番は廃されています。幕末まで関宿藩士が在番し、管理運営しています。
 往時の関宿関所は江戸川の水量調整を行う「棒出し」という施設上に立地していました。

 棒出し 江戸川右岸
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 現在の江戸川の景況からは全く想像の付かない河川の合流状況です。

 説明版の大正期の「棒出し」画像
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 棒出しはかつての江戸川流頭部(権現堂川・ 逆川との接続部)に設けられていた水利施設です。幸手市側が「西棒出し」、野田市側が「東棒出し」と称されました。当初は丸太を数千本打ち込むことにより川幅を狭め、江戸川への水流を調整していました。
 天保年間(1831-1945年)に建造され、江戸川沿いの水害は減少しましたが、その分利根川沿いに水害が発生するようになりました。
 歴史的農業環境閲覧システム 同地
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 流路の方向からすれば北上する権現堂川が逆さのように思いますが、権現堂川と一本の流路のように対向する様は正に「逆川」です。
 明治8年(1875年)および明治17年(1884年)に玉石積みに組み替えられますが、大水により崩壊したため、明治18年(1885年)に角石積みとなります。明治31年(1898年)にはセメントを利用した角石張りに改良されました。1910年(明治43年)に発生した大水害を受け河川改修が行われ、これに伴い江戸川の流頭部が北へと移り、権現堂川は締め切られました。1927年(昭和2年)に行われた新たな流頭部への関宿水閘門の設置に合わせて、1929年(昭和4年)に棒出しは撤去されました。
 棒出しの設置年については諸説あり、上記の天保年間の他に1822年(文政5年)、1783年(天明3年)の文書に棒出しの記述が見られることから、1783年(天明3年)には建造されていた可能性もあります。棒出しの上には関宿の関所が設置されており、関宿藩により管理されていました。

 中の島公園 茨城県五霞町大字山王
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 関宿水閘門の中の島公園には棒出しに使われた角石が置かれています。コンクリート製ですので明治31年(1898年)のものでしょうか。明治18年(1885年)の角石は岩舟山のものだそうです。
 岩舟山の石は江戸時代には、城や神社仏閣の建築のため渡良瀬川の河川舟運を利用して関東各地に運搬されました。

 歴史的農業環境閲覧システム 埼玉県幸手市大字西関宿-茨城県五霞町大字江川
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 ①埼玉県幸手市大字西関宿
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 権現堂川と江戸川に挟まれた西棒立ち側の地域ですが、往時は対岸の関宿江戸町とともに大いに栄えました。
関宿三河岸(内河岸・向河岸・向下河岸)と呼ばれ、江戸川左岸が関宿江戸町の「内河岸」で、江戸川右岸の西関宿が「向河岸」・「向下河岸」です。利根川対岸の境河岸と関宿三河岸は関宿領の重要な財政基盤となりました。

 ②茨城-埼玉県境
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 権現堂川の中央部になります。

 ③江川村丁字路 茨城県五霞町大字江川
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 江戸川流頭部対岸だった地域です。往時の丁字路が十字路として残ります。地形的には下総台地の江戸川右岸地域で標高12mほどです。

 ③善照寺 鐘楼石垣 茨城県五霞町大字江川
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 この寺の鐘楼の石垣には棒出しに使用されていた角石が使われています。
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 コンクリート製で中の島公園で見かけたものと同様の物ですね。明治31年(1898年)のものでしょうか。

 香取神社 千葉県野田市関宿江戸町
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 こちらはひなたが現地で棒出しに使われた角石ではないかと思った石です。香取神社自体は河川改修により当地に移設されました。ちなみに千葉県最北端の香取神社です。
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 土中に埋まっている石はコンクリート製ではありませんので、明治18年(1885年)に設置された角石ではないかと考えています。

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