艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程 番外編 【元荒川旧流路②須賀用水】

須賀用水スクリーンショット (1207) 須賀用水は、慶長年間(1596~1615)に形成された末田須賀溜井より新方(にいがた)領の用水として引かれたと伝えられます。この頃は元荒川が袋山で蛇行して流れていましたのでその外周に沿って引水していましたが、明治42年(1909年)から大正5年(1916年)にかけて実施された新方領耕地整理事業により直線的な流路に改められています。また、同じく慶長年間に掘削された新方川は、かつては千間堀と呼ばれ、新方領の重要な基幹排水路に位置付けられていました。この千間堀は、東武スカイツリーライン「せんげん台」駅の名前の由来にもなっています。

末田須賀堰 埼玉県さいたま市岩槻区新方須賀スクリーンショット (1211) 末田須賀堰は、水資源開発公団が管理する元荒川に設けられた農業用水取水堰で、さいたま市岩槻区・春日部市・越谷市の約1500haの範囲に灌漑用水を供給しています。
 管理橋名から「永代橋」とも呼ばれ、古くは大戸の堰と呼ばれていました。元荒川右岸から末田大用水、元荒川左岸から須賀用水が取水しています。現在の堰は平成6年(1994年)に建設されたものですが、それ以前の堰は明治38年(1905年)竣工の煉瓦造堰でゲート数が10門もあり、埼玉県最大の煉瓦堰でした。

須賀用水圦 さいたま市岩槻区新方須賀スクリーンショット (1216) 須賀用水は、新方領用悪水路土地改良区が管理する用水で元荒川左岸の灌漑用水を供給しており、末田須賀溜井成立時に新方領の用水として引かれたと伝えられています。元圦は大正4年(1915年)頃に木造からコンクリート造りに改築され、その後、末田須賀堰の全面改修に伴い元圦が移設・改修されています。現在の元圦は平成8年(1996年)の県営農村環境整備事業によるものです。

末田須賀溜井 末田大用水取水口 さいたま市岩槻区末田スクリーンショット (1213) 堰による末田須賀溜井の背上げは5㎞ほど上流の岩槻久伊豆神社付近まで及び、この区間では増野川用水路、大谷川・武徳川用水路が農業用水の供給を受けています。

 荒川は江戸時代より前は、江戸湾に流れていた利根川の支川として、現在の元荒川筋を流れており、元荒川と綾瀬川に分流していました。南の低地を流れる綾瀬川の方が水量が多く、流域では水害が頻発しており、慶長年間に関東代官頭伊奈備前守忠次が桶川市小針領家に備前堤を築いて、綾瀬川に合流していた赤堀川の流れを元荒川に直角に落とし、綾瀬川を元荒川から分離しています。この後、寛永6年(1629年)に荒川は熊谷市久下付近で締め切られ、和田吉野川に付け替えられ、入間川筋を本流とする流れに変わり、元荒川の水源は荒川扇状地の扇端である熊谷付近の湧水と流入する悪水(農業排水)のみとなり、大幅に水量が減じています。

御定杭スクリーンショット (1212) 慶長年間(1596~1615)に堰が形成された当時は縫竹で組まれた水流し場(竹洗流し)により取水がされていましたが、この竹洗流しの堰体を巡り用水側と排水側との水争いが続いていました。寛永3年(1750年)には示談がまとまり、堰を固定された石堰としています。末田須賀堰右岸には、寛延三年(1750年)に堰の高さを規定した御定め杭が残っています。

末田須賀堰(永代橋)下流部スクリーンショット (1219) 対岸に二つの円形の取水工が見えますが旧須賀用水圦です。旧末田須賀堰は今よりも下流部に設置されていました。
 元荒川は山地の水源を持たない内水河川ですが、利水上、用排水兼用の河川であり、上流から榎戸堰(鴻巣市)、三ツ木堰(鴻巣市)、宮地堰(鴻巣市)、末田須賀堰(さいたま市)と4基の取水堰(農業用水)が設けられています。昭和初期までは、笠原堰(鴻巣市)と栢間堰(久喜市)も存在しましたが、笠原堰と栢間堰は宮地堰へ合口され廃止されています。
 これらの堰から取水された用水は再び元荒川に排水され、下流部の堰で再び取水されるという高度な再循環を繰り返していますが、末田須賀堰が再利用の終端で、ここから下流は排水専用の河川となります。末田須賀堰から取水された用水は右岸(末田大用水)は綾瀬川、左岸(須賀用水)は新方川に落とされています。下流部には瓦曾根溜井(現在は元荒川と分離)がありますが、こちらは葛西用水経由で利根川を水源としています。

須賀用水上流部スクリーンショット (1234) 須賀用水上流部の須賀村、大森村、三宮村、大道村、大竹村、恩間村は岩槻藩の領分でした。元荒川左岸自然堤防外縁に沿って須賀用水は掘削されています。

須賀橋 さいたま市岩槻区新方須賀スクリーンショット (1235) 元圦から自然堤防上の新方須賀村の集落を抜けた先に架かる橋です。埼玉郡だけでも4つ須賀村が存在するため、領名の新方を冠したようですが、須賀神社の庚申塔には単に「須賀村」と表記されていました。利根川流域には他にも須賀の付く地名が多く存在しますが、砂州を意味するスガ(砂処)が慶字に改められたと云われます。

森野川元圦 さいたま市岩槻区大森  竹道川元圦 越谷市三野宮
スクリーンショット (1236) 森野川は須賀用水左岸の大森村、三野宮村の水田のための用水です。竹道川は須賀用水右岸の三野宮村自然堤防上集落を横断して大道村、大竹村の水田に水を供給します。

間久里川 越谷市大道/大竹スクリーンショット (3151) 間久里川は大正5年(1916年)竣工の新方領耕地整理事業によって改修される前の須賀用水の流路です。元荒川旧流路により形成された自然堤防上を掘削しています。スクリーンショット (3152) 須賀用水の間久里川分水工から両川とも暗渠となります。スクリーンショット (3153) 間久里川は元々は農業用水路でしたが、周辺の宅地化により2014年あたりに田圃は全て消失し、現在は都市防災河川となっています。用水は暗渠上の親水公園(遊歩道)の流水、花壇等の給水に活用され、災害時などに水を汲み上げる設備が用意されています。
 この辺りの須賀用水は、深く掘り下げられており、非灌漑期には逆流しています。内水の排水のため、非灌漑期は雨水幹排として機能していますね。この先須賀用水は暗渠となりますが、この通りは「須賀川通り」と呼ばれています。

 旧元荒川堤防(恩間村里道) 越谷市恩間スクリーンショット (3155) 暗渠の細部は不明ですが、先ほどの間久里川分水工からここまでは、旧元荒川の自然堤防の後背湿地、内水の溜まり易い地形となっていますので、非灌漑期に逆流する勾配となっているのはここまででしょう。

須賀川通り(大袋駅西口) 越谷市袋山スクリーンショット (3158) 須賀用水(暗渠)は、大袋駅西口を斜め(南東)に横断します。時系列で見ると須賀用水(大正5年)が竣工した後に大袋駅(大正15年)が設置されています。地名の袋山は元荒川旧流路湾曲部に由来するものですね。スクリーンショット (3159) 須賀用水は東武スカイツリーラインを横断します。

普通河川第二古川(暗渠) 越谷市大里スクリーンショット (3161) 正面(北)の歩道(暗渠)が第二古川で、東西に横断する自転車置場(暗渠)が須賀用水です。第二古川は、元荒川旧流路に該当し、この左岸堤防が日光道中になります。近隣の街道筋には下間久里村の集落があります。スクリーンショット (3163) 国道4号と新国道4号が交差する下間久里交差点の近くですが、戦後間もない時期に国道4号(現・県道49号足立越谷線)が整備され、日光道中は幹線道から切り離されたため街道筋の街並みが比較的保全されています。
 連合国軍占領下の日本(1945-1952年)では、道路が戦争の影響で荒廃していたため、GHQは軍事的に重要な道路路線を整備することを日本政府に要求しました。これを受けて日本政府は1948年(昭和23年)11月、「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」により、連合国軍の援助を受けつつ荒廃した道路の路面補修や橋梁修繕などを行っています。もっとも、航空写真図を見るに1947年時点では道路建設に着工していますので、東京から宇都宮や仙台などの進駐軍キャンプに通じる補給幹線の整備は最優先事項だったのでしょう。この結果、狭くて鍵の手状に曲がる宿場町をパイパスする道路が優先して整備され、宿場の景観が保全されることになりました。

須賀用水 越谷市大里スクリーンショット (3168) 歩道となっている暗渠部分と開渠部分が混在します。1990年代まではこの辺りにも水田が存在していましたが、現在では完全に消失しています。スクリーンショット (3169) 流末は暗渠となり、東武スカイツリーライン東沿いに南下しています。

北越谷五丁目排水機場 越谷市北越谷スクリーンショット (3172) 最終的には北越谷五丁目排水機場から元荒川に排水されます。

御領堀 越谷市大房スクリーンショット (3170) 掘の名称はこの一帯が幕府直轄領(御領)であった事に由来します。河川管理上は御領堀第2号雨水幹線という新方川に排水される水路ですが、北越谷五丁目排水機場が設置される以前は須賀用水の流末はこの水路に落とされていました。
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