艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程 番外編 【元荒川旧流路①】

 江戸時代初期まで隅田川(現・大落古利根川-古隅田川-元荒川-中川-隅田川)は、武蔵国と下総国の境となっており、越ヶ谷周辺の元荒川では支配勢力の違いから元荒川右岸に久伊豆神社、元荒川左岸に香取神社が分布して決して交わらないという規則性があります。

元荒川〆切橋付近の国土地理院地図スクリーンショット (956) 大竹神社の創建年代等は不詳ですが、江戸時代初期に大竹村が開発された際に下総国一宮である香取社が勧請されたとされます。明治6年に村社に列格、明治40年に村内の八坂神社、浅間神社、八幡神社などを合祀して大竹神社と改称しています。
 対する、砂原久伊豆神社は、天正元年(1573年)創建と伝えられ、砂原村東組の鎮守、昭和18年に村社に列格しています。久伊豆神社は埼玉県加須市に鎮座する玉敷神社(久伊豆明神)が総社とされ、元荒川流域を中心に分布しますが、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しています。スクリーンショット (964) この地域の久伊豆神社の由来は、越ヶ谷郷の古志賀谷二郎為基や大相模郷の大相模二郎能高が定住し、氏神である久伊豆宮を祀った事によると伝わり、後に領主的土豪となった会田氏も氏神として祀るようになります。

神社勢力境界の例外スクリーンショット (962) ところが、袋山久伊豆神社は、元荒川左岸に鎮座し、周囲には囲むように香取神社が鎮座しています。

袋山の元荒川旧流路スクリーンショット (1133) 袋山久伊豆神社が規則性の例外のように見えるのは、治水対策として宝永年間(1710年頃)に袋山村一帯の元荒川流路が直線化されたためです。袋山の地名は元荒川湾曲部の地形に由来し、「フクロ」は水が溜まり易い場所、「ヤマ」は河畔砂丘を指しています。南荻島の元荒川に架かる「〆切橋」と分断された耕地である「内野合」、「外野合」はこの河川改修に由来する地名ですね。越ヶ谷久伊豆神社が元荒川左岸に位置するのも同様の理由によります。

越ヶ谷久伊豆神社周辺図スクリーンショット (1137) 越ヶ谷久伊豆神社と天獄寺の領域は中世城郭の遺構であると云われていますが、こちらの河川改修は瓦曾根溜井の構築(1600年頃)によるものでしょう。先ず新たな流路となる溜井を掘削・築堤した後に、旧流路湾曲部を締め切ったものと推測します。

航空写真図(1961-1964年)袋山付近スクリーンショット (1146) 袋山の元荒川旧路湾曲部周辺の航空写真図です。湾曲部外縁には洪水による土砂の堆積で形成された自然堤防、内側の水流の穏やかな場所では砂が堆積して砂州が形成されている様相が覗えます。緑の彩色が奥州古道、青の彩色が日光道中になります。1960年代までは宅地化が進んでおらず、田畑や集落の景況から元荒川旧流路が新田として開拓された事が見て取れます。
 旧河道の最低標高地は水路として利用されているようですが、排水機場のない時代ですので元荒川への排水には無理があり、東の新方川(千間堀)に落とされています。日光道中に集落が確認できますが、北の奥州古道との分岐付近が上間久里、その南の集落が下間久里です。

 現在の元荒川流路

〆切橋周辺図スクリーンショット (1155)〆切橋と元荒川上流締切部スクリーンショット (970) 元荒川締切上流部です。河道が南東に向きを変えています。

〆切橋 越谷市南荻島スクリーンショット (976) 荻島村野合の農地が新河道で分断される事になりましたので往来の為に〆切橋が架橋されました。また、橋の袂には〆切河岸が設けられていました。、現在の橋は昭和12年(1937年)竣工のRC桁橋ですが、老朽化のため現在は通行禁止となっています。

元荒川下流締切部 対岸より 越谷市南荻島スクリーンショット (978) 樋菅と排水口が見えますが、外野合排水機場のものですね。

北越谷第五公園 越谷市北越谷スクリーンショット (1144) 右手の道路が日光道中、中央の元荒川堤防天端が奥州古道となります。右下写真の道標付き青面金剛文字塔には「右 ぢおんじ 乃じま 道」と記されていますが、往古に葛飾郡甲和(小岩)から岩槻まで塩を運んだ慈恩寺道ですね。元荒川堤防沿いに上流に進むと三野宮橋を渡った先に野島地蔵尊として有名な浄山寺があり、更に遡った岩槻には坂東三十三観音霊場十二番の慈恩寺があります。双方ともに慈覚大師(794年 - 864年)が創建したと伝わる古刹です。浅草の浅草寺が坂東三十三観音霊場十三番なため、日光道中から寄り道して慈恩寺参りをして日光御成道から幸手宿に至る旅人も多かったようです。

元荒川下流締切部 越谷市大林スクリーンショット (977) 広い河川敷は旧河道跡ですね。北越谷第五公園から左岸沿いに上流へ辿ると、県道325号に突き当たり、堤防が県道沿いに向きを変えますが、この堤防が締切堤防となります。県道325号を横断した先に旧流路が流れていた訳です。

元荒川橋北 越谷市南荻島/大林スクリーンショット (983) 元荒川橋北の国道4号線アンダーパス下の道路ですが、右手の道路に高まりが認められます。住所上では、この道路が大林と南荻島の境界となっていますので、元荒川左岸堤防跡(奥州古道)でしょうか。

せせらぎ水路 越谷市袋山/大林スクリーンショット (1153) 越谷市大林と袋山の境界にはせせらぎ水路(住所は袋山)という遊歩道が整備されていますが、元々は水田の用排水路だったようです。暗渠となった水路は河川管理上、元荒川第3-1雨水幹線と呼ばれ、外野合排水機場から元荒川に排水されています。スクリーンショット (1151) 遊歩道東側の大林には梅などが植えられた畑地が残り、往時の面影を残します。西側の袋山の住宅街は田圃を宅地造成しています。かつての奥州古道、武蔵/下総の国境だと思うと感慨深いですね。

東武スカイツリーライン踏切付近 越谷市大林/下間久里

 せせらぎ水路と分岐する水田があった頃の用排水路が残っています。旧河道左岸を通る用排水路沿いに奥州古道は存在していたはずです。スクリーンショット (1049) 日光道中が東武スカイツリーライン踏切を横断する辺りで奥州古道は日光道中に合流します。この先は奥州古道、日光道中共に元荒川左岸堤防天端跡を進みます。

遊水池 越谷市下間久里スクリーンショット (1051) この遊水地は旧河道に位置しています。隣接の集合住宅一帯が嵩上げ造成されており、堀り下げたような景観となっているようですね。

大袋駅入口交差点 越谷市大里/下間久里スクリーンショット (1165) 大袋駅の駅名は開設時の村名である大袋村に由来します。大袋村は、元荒川旧河道湾曲部一帯の地域で、明治22年(1889年)の町村制施行により、大竹村、大道村、大林村、大房村、袋山村、恩間村、恩間新田、三野宮村が合併し南埼玉郡大袋村として成立しています。

古川スクリーンショット (1166) 管理上の河川名は普通河川第2古川です。大袋駅周辺はコンクリート製掩蓋の歩道となっています。古川は旧元荒川河道を利用した排水路で、北の間久里川及び東の御領堀を経由して新方川(千間堀)に落とされます。

古川(赤矢印)と須賀用水(緑矢印)スクリーンショット (1171)須賀用水スクリーンショット (1169) 須賀用水は元荒川(末田須賀溜井)の末田須賀堰左岸から取水し、新方領(岩槻区南東部及び越谷市新方川流域、春日部市南西部)を灌漑する用水路です。概ね元荒川沿いに流下し、北越谷五丁目排水機場から元荒川に排水されます。

北越谷五丁目排水機場 越谷市北越谷スクリーンショット (1173) 冒頭の奥州古道と日光道中の追分の傍に排水機場があります。

大袋駅周辺図スクリーンショット (1167) 古川の流路を治水地形分類図と照合すると旧河道と自然堤防の境界と見事に合致しますね。大袋駅も半島状の自然堤防上の高台に位置しています。
 須賀用水は元々は旧元荒川沿いに発達した自然堤防外周部に沿うように流れており、排水は御領堀から新方川へ落とされていました。旧元荒川河道を横断する現在の流路は、後の土地改良事業によるものですね。明治42年(1909)起工、大正5年(1916)竣工の新方領耕地整理事業は当時日本最大規模の土地改良事業でした。

 日光道中(奥州古道)と河川を辿ると錯綜して分かり難いので個別に記事を起こしたいと思います。次回から
〇日光道中(奥州古道)
〇間久里川
〇古川(御領堀)
〇須賀用水
に区分して紹介する予定です。
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