艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

ゲームプレイ&探索記録と考察を少々

【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程 流山村⑤【加村陣屋の対応-救援要請②越ヶ谷宿】

吉川橋 元荒川-中川合流地点 埼玉県越谷市東町PC110016.jpg 中島橋からの撮影ですが、往時は、南百村の領域です。吉川橋の位置に「かごの渡し」と呼ばれる渡し場が設けられていました。呼び名は徳川家康が鷹狩の際に船でここから上陸した事に由来します。
 往古の東海道から奥州に至る道は、千住から堀切-亀有-金町-松戸に至る経路だったようですが、隅田川自然堤防上を辿るルートの千住-大原-八条-南百-越ヶ谷-粕壁から幸手で日光御成道(鎌倉街道中道)に至るルートも用いられました。千住から当地までの下妻道がこのルートに該当します。スクリーンショット (821) 現在の隅田川は荒川の岩淵水門より下流部の河川名ですが荒川西遷前の荒川は入間川で、利根川東遷前の利根川が隅田川となります。赤字で示した流路が隅田川流路でした。現在の中川、元荒川、古隅田川、大落古利根川、葛西用水から栗橋の渡良瀬川に至る流路(廃川)が該当します。奥州古道は幸手までこの河川堤防上を通っており、越ヶ谷以北の日光道中は概ねこの古道沿いに施設されています。

古隅田川-大落古利根川合流点 春日部市粕壁P4250064.jpg 現在は元荒川とは接続されておらず、水流が逆になっていますが、かつての隅田川の一部です。東京都葛飾区の小菅にも親水公園として一部流路が残っていますね。この流路はかつて武蔵国と下総国の国境を成しており、東京都墨田区の両国はこの事に由来する事は有名です。

 宇都宮城救援のために日光道中を北上する新政府軍に流山救援を求める加村陣屋の田中藩士は、新政府軍と連絡を取るため越ヶ谷宿に向かいます。スクリーンショット (756) 緑のルートが奥州古道で、青のルートは千住-越ヶ谷間の直線道が開通する前の日光道中となります。スクリーンショット (760) 旧日光道中と奥州古道の分岐点です。県道52号本線が旧日光道中、右の脇道が奥州古道となりますが、どちらの道でも越ヶ谷宿へ至ります。旧日光道中に関しては明治期になってから鍵の手状の道路を直線化しています。このため、現在の県道52号と旧日光道中は整合しない場所が多いですね。反面、奥州古道は河川堤防の天端を利用しているため、現在でも二次堤防として利用されている区間が多く、現存している場所が多く見られます。下妻道の八條(八潮市)の条里制遺構の起点はこの辺りのようですので往古からの水田地帯だったのでしょうね。

柿木領八ヵ村スクリーンショット (777) 八条領内の東方(併合:山谷)、麦塚、見田方、南百、別府、四条、千疋、柿木は、柿木領八ヵ村と呼ばれる忍領の飛び地でした。寛永十六年(1639年)に、老中阿部忠秋が壬生2万5千石から忍5万石へ加増転封となった際に幕府直轄領だった八ヵ村の5千石弱の所領が忍藩の飛び地となっています。代官は置かれず、東方村下組名主の宇田家が飛び地領の割役名主に任じられ、代々世襲しています。飛び地の領民は「代官」と呼んでいたそうですが、あくまでも村役人(名主)の元締めといった地位・役割だったようです。領内では明治維新で行われた神仏分離令の忍領施策である「改刻庚申塔」が諸所で見られ、探索には持って来いの地域ですが、煩雑になりますので別項でまとめる予定です。

久伊豆神社鳥居 越谷市大成町スクリーンショット (772) 鳥居の奥の杜が久伊豆神社ですが、旧日光道中が鳥居前から大聖寺東門前まで残っています。この参道より西が西方村です。久伊豆神社は武蔵七党の野与党の氏神と言われ、一族の大相模次郎能高が東方村に本拠を置いた事から勧請されたそうです。スクリーンショット (795) 東方村上組名主の中村家は江戸中期以前は大相模姓を名乗り、屋敷地は中世城郭の遺構であると云われます。スクリーンショット (771)大聖寺(大相模不動尊) 越谷市相模町スクリーンショット (773)スクリーンショット (774) 道標に行き先として刻まれる、当時の越ヶ谷のランドマークです。越谷で最古の寺院と伝えられており、成田山新勝寺、高幡山金剛寺と合わせて関東三大不動に数えられる事もあります。旧日光道中は大聖寺に沿って鍵の手状に折れてから越ヶ谷宿へ向かいます。

奥州古道 越谷市相模町スクリーンショット (775) 久伊豆神社の裏手にある堤防天端上を通ります。

瓦曽根溜井 越谷市西方スクリーンショット (779) 瓦曽根堰は1600年頃に元荒川に設置され、溜井は四ヵ村用水、谷古田用水、葛西用水、八条用水に農業用水を供給していました(現在の農業用取水は八条用水のみ)。灌漑期のみ堰き止め、水位を嵩上げして用水を供給します。現在では元荒川と分離され、埋め立てられた溜井に越谷市役所などが建設されています。このため、市役所西側の道路は、元荒川右岸堤防でしたので奥州古道だったりします。

道標付き庚申塔 越谷市西方スクリーンショット (783) 葛西用水と谷古田用水の間の辻に庚申塔が建ちます。脇には説明版もありますので助かります。スクリーンショット (784) 吉川は今まで来た道で、ぢおんじは元荒川上流の岩槻にある慈恩寺です。市川は、葛西用水沿いに南下して水戸街道から松戸-市川でしょうか。道標の右左は石塔に向かってではなく、石塔と同じ向きになって左右なんですね。スクリーンショット (785) ここで気付いたのですが、五兵衛新田から葛西用水沿いに北上すれば、下妻道と交差しますので流山に至るには葛西用水沿いが近いですね。スクリーンショット (793) 大久保ら甲陽鎮撫隊が五兵衛新田から流山に移動したルートにこの葛西用水沿いの街道が使われた可能性は高いですね。実際に歩いてみてから移動ルートについて追加・修正を予定します。

日光道中(越ヶ谷宿)越谷市瓦曽根スクリーンショット (807)スクリーンショット (808) この道は瓦曾根村(八條領)と越ヶ谷宿(越ヶ谷領)の境界となります。上の写真の左手に不動尊の立像付きの道標があります。下部が土中に埋没していて判読できませんが、これより大さかみ道(大相模道)でしょうか。
 この石塔と同じ道標に見覚えがありますので、確認しに行っています。

茶屋通り 越谷市蒲生スクリーンショット (809)スクリーンショット (810) 日光道中の蒲生村から大相模不動尊へ至る道の辻に建つ道標ですが、頂部に不動尊像を載せた大相模不動尊への道標はキャッチ―なので覚えていました。

八条用水 馬頭橋 越谷市相模町スクリーンショット (812) 他にも大相模不動尊行きの道標はかなり見かけていますので、調べて別項でまとめてみるのも面白いかもしれません。

越ヶ谷宿スクリーンショット (814) 古代より近世初期まで、越ヶ谷郷は隅田川(かつての利根川本流:現・元荒川)を境に、左岸は下総国葛飾郡、右岸は武蔵国埼玉(埼西)郡に分かれていました。元荒川右岸の越ヶ谷町と左岸の大沢町が合わさって越ヶ谷宿です。なお、慶長17年(1612年)以前に、大沢町は下総国葛飾郡から武蔵国埼西郡(埼玉郡)に編入されています。
 越ヶ谷御殿の造営、参勤交代制の施行、日光東照宮の造営などで日光道中の往来は盛んになり越ヶ谷宿は繁栄しますが、当初、宿の要職は越ヶ谷町の会田一族に集中していました。後に両町の惣百姓大評定により伝馬業務が合併され、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から大沢町の福井家へ移ります。このため、越ヶ谷宿の町場構造は、越ヶ谷町に商店が集中し、大沢町に旅籠機能の集中が見られるという特徴的な町構造となっていました。

越ヶ谷宿本陣・脇本陣のあった辺り 越谷市大沢スクリーンショット (816) 大沢町に本陣があったため、東武線開通の際に開設された越ヶ谷駅は現在の北越谷駅でした。鉄道などの交通網の発達により、宿場機能は不要となり衰えたのに対して商家は栄える事になり、新たに現在の越谷駅が新設されています。越ヶ谷町沿いには古い商家が多く見られるのに対して大沢町ではほとんど見かけないのはこのためです。

 本題の救援要請の件ですが、加村陣屋の田中藩士が新政府軍に救援を求めて越ヶ谷宿に到着した際には、既に新政府軍は越ヶ谷宿を出発していました。
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