艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程 流山村③【加村陣屋の対応】

ましや呉服店 千葉県流山市加6丁目P7170013.jpg 呉服店のましや(増屋)は安政6年(1859年)の創業で、それ以前は酒造業を営み文政11年(1808年)の記録が残っているそうです。店舗部分は大正12年(1923年)の関東大震災以降、防災及び街路の拡幅のため、街路建築(看板建築)様式に改造されています。この建築様式は現在も旧街道筋に多く見られますが、近年急速に減少しつつあります。土蔵部分は明治3年(1872年)に建てられたものです。流山街道は江戸川沿いに南北に通り、その先の三辻で諏訪通りと交わります。2021-07-23 (5) 三辻と表現していますが、三辻の80mほど北で諏訪道(矢河原の渡しから対岸の越ヶ谷道に至る)が合流していますので、鍵の手状の四辻と表現した方が良いかも知れません。2021-07-23 (7) 加村は、江戸川沿いの加岸と、台地上の加台(現・平和台地区も含む)に区分されます。加岸は河岸として栄え、隣接の流山村の根郷とその南に続く宿とともに、流山の市街地を形成していました。P7170018.jpg流山市立博物館・図書館 流山市加1丁目P7170028.jpg 通称飛地山(とびっちやま)と呼ばれる加村台北端傾斜地に建設されています。2021-07-23 (16) 坂を上ると博物館入り口ですが、傍に「葛飾県印旛県史跡」と書かれた石碑があります。明治6年(1873年)に千葉県が成立するまで、ここ加村は葛飾、印旛県の県庁所在地でした。飛地を領していた田中藩は版籍奉還により本領の駿河田中に戻り、空き家となった本多家の下屋敷を県庁舎として使用しています。

加村陣屋 本多家下屋敷2021-07-23 (18) 概ね、現在の流山市立博物館の西側も含む地域と流山市役所の建つあたりまでの範囲に加村陣屋はありました。

旧高旧領取調帳より抽出2021-07-23 (26) 田中藩は本領の駿河に83ヵ村の領地があり、飛地として下総国葛飾郡に 33ヵ村、同相馬郡に10ヵ村を領していました。下総の石高はおよそ1万石です。
 幕末の外国による開国要求、開国か攘夷かを巡る国内紛争の激化、世直し一揆などの政情不安を受け、田中藩本多家は、文久3年(1863年)、下総飛地領の統治を強化すべく江戸深川の扇橋下屋敷を加村に移転しました。

蛇足ですが、その後2021-07-23 (29) 千葉県成立後、県庁は取り壊され、畑地となったようです。※この頃の地図記号で「空白」は空地または畑です。2021-07-23 (30) 進駐軍による航空写真ですが、博物館がある辺りは採薪のための雑木林になり、市役所の台上は畑地のままのようですね。飛地山南部外縁の植生には広葉樹に交じって背の高い針葉樹が確認できます。明治後期から土地利用に変化は無いようです。飛地山の市街地化は1960年代以降になります。

飛地山の甲陽鎮撫隊砲兵隊陣地について2021-07-23 (32) 迅速測図の三角点(測量点)が飛地山台上にありますが、その点が台上で一番観測に適しています。恐らくは甲陽鎮撫隊の弾着観測者はその位置に立ち、野砲はその辺りに据え付けられたでしょう。
 加村陣屋の田中藩士らにしてみれば、隣村の中心地に本陣を構え、陣屋の隣に砲台を据え付けるのですから、領地鎮撫のための幕府歩兵隊と言われても心穏やかでは無かったことでしょう。
 甲陽鎮撫隊の到着した4月2日、加村陣屋から救援要請の使者が新政府軍に対して送られました。
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