艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

ゲームプレイ&探索記録と考察を少々

【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程 流山村②【新政府軍の対応-宇都宮派兵】

世直し一揆
武州北部及び上州における世直し一揆
 元治元年(1864年)に京都で禁門の変が起きると、諸藩が有事に備えて米を備蓄するようになり、豊作でも米が流通しないという事態に陥るようになります。長州征伐の決定によりこの傾向は拍車がかかり、全国的に米価が上昇します。これにより、町方では打ちこわしが、在方では一揆が頻発するようになりました。特に慶応2年(1866年)の第2次長州征伐中と同4年(明治元年・1868年)の戊辰戦争時、最高潮に達しました。
 
羽生陣屋跡 埼玉県羽生市東2021-07-21 (13) 幕府は不穏な情勢に対応するため、岩鼻陣屋から遠く、関東平野の中央部で重要な関所とされた川俣の関所に近い当地に羽生陣屋を設けます。陣屋の構築は羽生領の村役人・豪農層の協力のもと、各村からの八千両の献金と人夫の動員によって、同年11月から翌年2月25日までの短期間に完成させました。また、関東郡代は、領内の治安維持のために、慶応3年12月以降、羽生領18ヵ村から80名の農民を召集して農兵隊を組織しています。
 領民支配のための陣屋を領民自身の犠牲により急ピッチで建設させ、領民支配のために農兵隊を領民から徴用して領民による一揆を鎮圧させるという施策は、幕府に対する怒りと不満をより高める事となり、世直し一揆を更に誘発することになりました。

梁田の戦い2021-07-21 (15) 慶応4年(1868年)3月9日、梁田の戦いにおいて増援として長州の楢崎頼三率いる1コ中隊が梁田宿に向かいますが、戦闘は終結していました。楢崎隊は翌10日に羽生陣屋へ向かい、警備を担当していた忍藩兵を退出させた後に焼き払い、新政府に対する恭順の意が定かでない忍城に対して攻勢の構えを取ります。羽生陣屋は完成から僅か半月で焼失しました。
 
羽生騒動2021-07-21 (11) 慶応4年(1868年)3月10日、東山道軍楢崎隊が羽生陣屋を焼打ちしたことを契機として、領民が陣屋の構築に協力した村役人や豪農などを襲撃し、その被害は28ヵ村、68軒に及びました。この騒乱は近辺の村々へ波及し、埼玉郡加須町・笠原村・騎西町・栗橋宿を含む45ヵ町村に及びました。これらの一揆勢は村役人の訴えにより忍城を包囲していた新政府軍(大垣兵)によって鎮圧され、暴徒として36名が捕えられて処刑されています。
 また、利根川対岸の上州一帯にも世直し一揆は波及し、一揆勢の制圧下に置かれなかったのは高崎、前橋、伊勢崎の3藩のみであったとされています。

野州世直し
 羽生騒動を発端とした上野の騒乱は、下野にも飛び火します。2021-07-22 (3) 慶応4年(1868年)3月29日、下野南部で蜂起した農民達が村役人の庄屋や名主、宿場の本陣などを打ち壊しながら北上します。2021-07-21 (18) 同年4月1日、一揆勢は宇都宮城下南部に迫り、宇都宮藩の解散の説得には応じず、同3日には宇都宮城下の八幡山に結集します。その規模は3万人に達していました。一揆勢は宇都宮城内への突入には失敗したものの、転進して鹿沼や今市方面で打ち壊しを続けます。2021-07-22 (5) 宇都宮藩家老の県信緝は、一揆の状況を板橋の東山道総督府に報告し、4月1日に総督府は宇都宮への救援軍派遣を決定します。東山道総督府軍大軍監香川敬三率いる先遣隊は千住宿に集結し、斥候隊として東征軍内参謀祖式金八郎率いる須坂藩1コ小隊が先触として日光道中を先行します。この際、千住宿で甲陽鎮撫隊の隊士が捕縛され、五兵衛新田に駐屯する幕府歩兵隊の存在が発覚しました。翌2日、先遣隊は日光道中で宇都宮に向かいます。2021-07-22 (7) 先遣隊は古河を当初の目的地とし、4月2日千住宿を出発、この日、斥候隊は栗橋宿、先遣隊は粕壁宿に到達します。この時、粕壁宿の先遣隊本営に田中藩の加陣屋から救援要請の使者が到着します。

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