艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程【下妻古道(中央交番:中番場-中川右岸)】

中央交番前交差点 草加警察署 八潮中央交番PA240069.jpg 前回は、【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程【下妻道(大曾根-中央交番:中番場)】まででした。中央交番前交差点は、往時から街道の交差点でしたので、八潮市の変遷を知る上で要石となる場所ですね。

国土地理院 航空写真図(1961-69年)2020-10-30 (9) 時期的には八潮村か八潮町だった頃です。八潮中学校は存在していますが、隣の市役所はまだ存在しません。八潮村・町役場は、八幡村役場:現在の八潮市立八幡図書館(中央3丁目)に位置していました。八潮村、町、市役所 航空写真図を見て判るとおり、市街地の区画整理ではなく、水田の土地改良事業によって往時の下妻道は消失しています。碁盤の目状に整備された田んぼの区画がそのまま市街地化していますね。八潮市役所と周辺市街地は草加市や越谷市のように宿場町に役所が出来たのではなく、水田地帯に新たに街を興しています。

迅速測図 十字線:八潮中央交番下妻道 八潮市中央 赤線の道路は下妻道です。年代によりルートの変遷があり、江戸期の下妻道は北上して中川右岸に至るルート(概ね現在の都道・埼玉県道102号 平方-東京線)ですが、それ以前の下妻道は東に進んで中川右岸に至るルートでした。
 このルートは赤囲み枠の区画整理(土地改良区)事業により、消失してしまいました。中川右岸付近には一部通りが残っていますので確認してみましょう。便宜上、
【下妻道】江戸期のルート
【古下妻道】江戸期以前のルート
 と呼称します。

【古下妻道】
 街道歩きの先人らの情報によれば、現在の共和橋の南と北の2ルートを古下妻道と主張する人が存在しています。源義家(八幡太郎)が前九年後三年の役の際に通ったという言い伝えもありますので、永承6年(1051年)には存在した事になりますね。二丁目 木曾根 中川右岸沿いに通る街道は川を下ると、大瀬(戸ケ崎の渡し:現在は潮止橋)に至る道です。

①木曾根村
山田うどん食堂 木曽根店PA250122.jpg 潮止通りのこの交差点から中川堤防までの約200mは概ね古下妻道と整合するルートのようです。中川右岸自然堤防上の集落で後背湿地に囲まれた地域です。この地に木が生い茂っていた事が地名の由来と云います。

松之木地蔵尊PA250117.jpg 松之木というと、八潮市内の松之木小学校に名が残る松之木村を連想しますが、ここから2㎞ほどは離れており、調べてみたものの関連性は不明でした。小さなお堂ですが、しっかりと管理されており、地域に根付いた地蔵尊であることが覗えます。

門前の松が見事な住宅と商店PA250114.jpg 店の屋号が「大和屋」ですので往時から営業しているのかも知れませんね。突き当りは中川堤防です。PA250113.jpg 旧家のようですので、この通りが近年の区画整理から免れた証となるでしょうか。

フラワーパーク・マリーナPA250110.jpg 河川堤防を昇るとレジャーボートの係留・保管場が見えます。河川敷は中川やしおフラワーパークという公園になっています。ここには渡し場があったのですが、別項でまとめますので今回はここまでです。

②二丁目村
二丁目交差点PA250088.jpgPA250087.jpg この交差点で潮止通りはL字に曲がります(潮止橋から来れば左折)。二丁目とは「二丁目村」由来の交差点名で条里遺構地名に因むと云われます。

普門院PA250085.jpg 普門院の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿に「新義真言宗、彦成村圓明院の末、弘誓山と號す、不動を本尊とせり。山王社」とあります。

土手供養碑PA250083.jpg 普門院の門前には土手供養碑が中川河川堤防改修により移設されています。

掲示板より
 「この供養碑は、明暦元年(一六五五年)に当字の鎮守氷川神社の東側の中川土手上に建てられたものです。当時は川の氾濫により、しばしば土手が切れ、村じゅうが水びたしになり、村びとを苦しめました。そこで、普門院住職浄西は、土手が切れないようにと願をかけ、草創百姓十七名(「二丁目の獅子舞」の獅子株を持っていた人々)の浄財によりこれがつくられました。それ以後、土手が切れなくなったと言われています。中川の改修により、昭和六十二年にこの地に移されました。「土手まもり様」として多くの人々に親しまれ、ながい間、往来の人々の安全を見守っています。」

板碑堂PA250093.jpg 工場敷地内のお堂で向きが通りに面していませんが拝見させて頂きました。

板碑PA250090.jpg 主に供養塔として使われる石碑の一種で、近世以降は木製の卒塔婆が用いられるようになっています。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的な武蔵型板碑は、秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれます。設立時期は鎌倉期~室町前期に集中していますので、古下妻道であった証になるでしょうか。

来迎寺PA250100.jpg 来迎寺の創建年代は不詳ですが、光蓮社明譽順宗(万治元年1658年寂)が中興したと云います。

二丁目氷川神社PA250070.jpg 社号は、氷川神社久伊豆神社合殿でしたが、明治42年(1909年)に氷川神社と改称、同年に下と若柳の稲荷神社を合祀しています。本殿・拝殿は、嘉永元年(1848年)の再建と伝わります。別当寺は普門院です。なお、元荒川~古利根川流域に分布する久伊豆神社では最南端に位置する神社です。
 二丁目村は、中川右岸、自然堤防上に集落が形成されました。集落は、上・下・若柳の三つの村組に分かれており、当社は上組に鎮座します。前述の通り、二丁目の地名は、条理遺構地名と云われ、室町期の板碑が多数分布する中世村落でもありました。

恩田家屋敷林公園PA250051.jpg 二丁目草分けの家系で、氷川神社の旧社家です。普門院を建立し、同院持ちとなっている稲荷社は恩田家の鬼門除けに祀ったと云われます。二丁目氷川神社は、同家先祖恩田治部(寛永年間没)が神主となって祀っていました。以降、明治初期まで同家が神職として奉仕しています。この恩田家の屋敷林が「ふるさとの森」として開放されています。屋敷の囲い堀の遺構も残っていますね。

昭和排水樋菅PA250068.jpg 中川右岸堤外地の内水を中川へ排水する樋菅ですが、昭和排水路を境界として八條になります。旧共和橋はこの袂に架かっており、それ以前はこの樋菅の排水路の側面を船着き場とした渡しがありましたが、別項でまとめますので今回はここまでです。

潮止揚水機場PA250063.jpgPA250062.jpg 二丁目は旧潮止村に位置しますが、八条用水の流末であり、慢性的な水不足に悩まされました。中川右岸の落し堀に6~8台の踏車を並べ、昼夜の別なく水を汲み上げていました。

 参考:踏車(ふみぐるま・とうしゃ)800px-Irrigation_Treadmill_in_Japan_(1914_by_Elstner_Hilton).jpgPA250061.jpg 昭和3年(1928年)に行われた耕地整理の際に電動ポンプ式の潮止揚水機場が建設されました。翌年竣工。年間四千数百人必要とされた人足は不要となり、潮止村農業の生産効率は格段に向上しました。当時設置されたモーターは現存しておらず、展示されている2基のモーターは昭和26年(1951年)製のものです。

用水路を見ると追わずにはいられないひなたでした。PA250057.jpgPA250054.jpgPA250075.jpg 開渠部分は450mほどで後は暗渠ですが、水門により歩道下に水路がある事が判りますね。

国土地理院 航空写真図(1961-69年)2020-10-30 (9) 冒頭の航空写真ですが、今までの探索から、碁盤の目状の水田は縦が八条用水、横が潮止揚水路に整合して造成されたことが判りますね。古下妻道は昭和3年(1928年)に行われた耕地整理により消失したようです。


追記 現代の耕地整理事業

埼玉県鴻巣市北根P6240007.jpg 昭和期までの耕地整理の田んぼの面積は人力による作業前提に区画されており、畦道は作業人員の移動のために幅広に造られていました。戦後に機械化した際も小型の農機具でしたので、この規格で支障はありませんでした。P6240008.jpg 最近の農業は企業体による大規模経営が行われるようになり、機械は大型化し、苗代に種籾を撒き、育った苗を田植えするのが一般的だったものが、直接田んぼに種を蒔く方式になったりしていますので、人が田んぼに足を踏み入れる事はなくなりました。
 こういった事情により、現代の耕地整理では畦を取り外し、大型機械での農作業の効率化を図るとともに、耕地面積を増やしています。田んぼ一面の辺の長さは100mを超え、壮大な田園風景が広がっています。
 こういった耕地整理は関東平野の低地部である事で実現可能な訳で、日本の水田耕地面積の半分近くは狭隘な山間部に造られていますので、効率化は難しいのが現状です。

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