艦これアーケード/街道・水路歩き たけやん/ひなたの日記帳

ゲームプレイ&探索記録と考察を少々

【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程 流山村①【流山村布陣】

 ここまでのあらすじ 甲州勝沼の戦いで敗れた甲陽鎮撫隊は八王子宿で解散、慶応4年(1868年)3月13日夜から4月1日までの19日間、近藤勇(大久保大和)と土方歳三(内藤隼人)に率いられた隊(以降、便宜上甲陽鎮撫隊と表記)が五兵衛新田に屯所を設けました。五兵衛新田で徴募を行っていた甲陽鎮撫隊ですが、新政府軍の千住宿への進出により隊士が捕縛され、屯所の存在が発覚します。4月1日後夜半に新政府軍斥候は伊藤谷橋右岸まで進...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争⑦】

飯能戦争後の旧幕府軍敗走の関する記録・伝承の残る地域 旧幕府軍は主に秩父往還道を敗走路として各地に潜伏したようです。飯能から秩父までは峠道で28㎞ほどありますが、飯能戦争の勃発した5月23日当日には敗残兵が秩父まで到達していますので、戦いの帰結は朝方には決していた事になります。恐らくは新政府軍侵攻の報を聞き、敵前逃亡した旧幕府歩兵も多かったのでしょう。渋沢平九郎の敗走路 振武軍右軍頭取の渋沢(尾高)平...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争⑥】

 飯能の町中に突入した備前岡山、大村、砂土原隊と、町中を迂回した筑前・筑後、川越隊は、振武軍基幹の旧幕府軍の本陣である能仁寺に攻勢を仕掛けます。戦いは午前中には終結したそうですので、この局面の戦いは長くても2時間ほどだったと思われます。色別標高図 国土地理院を加工 地形から防御陣地を考察すると、振武軍は能仁寺及び後背の羅漢山を防御の核心とし、諏訪沢を防御の第一線として2コ中隊並列に布陣したものと推測...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争⑤】

扇町屋宿 埼玉県入間市扇町屋 扇町屋に集結した新政府掃討軍は飯能攻略のため部隊の再編制を行います。22日後夜半から23日前夜半にかけて再編成された新政府掃討軍は秩父甲州往還沿いと日光脇往還沿いの二経路に分かれて飯能に向け進軍しました。 5月23日未明、笹井での遭遇戦により戦いの火蓋が切られます。 この戦いで旧幕府軍を駆逐した新政府軍は、夜明けまで一旦休止します。入間川(笹井堰) 狭山市笹井 扇町屋宿から...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-本日は、近藤勇最後の日【本シリーズ目的地】

 大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程と称して近藤らの足跡を辿っている本シリーズですが、本日は近藤勇の命日ということで板橋の供養塔周辺の紹介です。JR板橋駅(東口) 東京都北区滝野川 板橋駅東口を出てすぐ目の前に近藤勇の墓地はあります。近藤勇墓所 北区滝野川 大久保大和(近藤勇)は慶応4年4月25日(1868年5月17日)、板橋刑場で斬首されました。享年35(満33歳没)。首は京都の三条河原で梟首されていま...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争④】

国土地理院地図 色別高低図 飯能は名栗川(入間川)の谷地の出口となる地で秩父山地の入り口になります。天覧山 埼玉県飯能市飯能 西に秩父山地、東の狭山丘陵、南の加治丘陵に囲まれた地形です。 慶応4年(1868年)5月18日、振武軍と彰義隊残党を含む旧幕府軍は、田無から箱根ヶ崎と所沢の二経路を通って扇町屋を経て武蔵国入間郡飯能村の能仁寺に本営を移しました。隊士らは、能仁寺など現・飯能市内の6つの寺に駐屯してい...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争③】

上野戦争 慶応4年(1868年)5月15日、振武軍は彰義隊支援のため江戸に向かって進軍しますが、彰義隊は新政府軍参謀の大村益次郎の戦略・戦術の前に夕刻までには壊滅し、壊滅の報を受けた振武軍は、彰義隊残党の一部を収容しながら撤退しています。江戸から旧幕府勢力が駆逐され、次の矛先が振武軍に向くことは容易に想像出来ましたので、振武軍は本陣を飯能に移転します。飯能への布陣御用留(浅見家文書) 御用留とは、名主など...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争②】

  田無は、江戸から近く、地形も防御に向かない事から箱根ヶ崎の円福寺、旅館関谷に本営を移転しましたが、ここに拠点を置いている際に江戸に潜伏していた隊士から上野戦争勃発の報が届きました。状況図 慶応4年(1868年)5月15日、振武軍は彰義隊支援のため江戸に進軍しますが、彰義隊は新政府軍参謀の大村益次郎の戦略・戦術の前に夕刻までには壊滅し、壊滅の報を受けた振武軍は、彰義隊残党の一部を収容しながら箱根ヶ崎へ戻...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【飯能戦争①】

振武軍の結成振武軍の軍旗 彰義隊成立の経緯については、【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【上野戦争①】をご参照ください。 慶応4年(1868年)4月11日、江戸開城が成され徳川慶喜が水戸へ退去すると、彰義隊頭取の渋沢成一郎は、日光に拠点を移転する事を提案しましたが、天野八郎らは江戸での抗戦を主張します。天野の一味による暗殺未遂により渋沢成一郎は彰義隊から離脱、慶応...

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【街道攻略】大久保大和(近藤勇) 敗走と板橋までの道程-その他幕府鎮撫隊の戦い【上野戦争⑧】

状況図 慶応4年5月16日1700 薩摩、熊本、鳥取諸藩兵は根本中堂を包囲、立て籠もる彰義隊隊士を殲滅し、彰義隊の拠点である上野寛永寺境内の寺院を焼き払いました。ついには本坊(輪王寺宮の住居:既に逃走)を焼き払い、ここに上野寛永寺は事実上陥落し、掃討戦に移行します。 彰義隊の敗残兵の多くは大村益次郎が敢えて包囲を薄くした根岸方面に逃走しましたが、主要な街道筋の宿場は新政府軍警戒部隊が配備されており袋の鼠で...

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